印欧語の動詞の語尾は、結局のところ代名詞

インド/ヨーロッパ語族の特徴は動詞が語尾変化することです。そして、その語尾はすべての印欧語で非常に共通性があります。たとえば一人称単数(わたし)では「mまたはそれが消失して母音になったo」、一人称複数(わたしたち)ではmsという音がよく出てきます。このmは、一人称代名詞の単数形、つまり英語のmeに相当する語だそうです。そしてmsは、meに複数形がついた形。つまり印欧語の語尾変化とは、動詞に人称代名詞が後置する形で付加されたのに他ならないのだとか。ちなみに英語はああ見えて、印欧語の古い形をよく残している古式ゆかしい言語だそうです。(吉田育馬 新ラテン語文法 p34)

「全て」の語源

「すべて」の語源は「統べる(すべる)」(まとめる)のようです。「そうする→そうして→そして」と同様に、「統べる→統べて→すべて」となるわけです。つまり「まとめて」ということです。漢字は本当に目くらましだと思います。全てと統べてだとぜんぜん違うように見えますが、よく考えると両方「すべて」であるわけです。また天皇を「すめらのみこと」ということがありますが、この「すめら」も「統べる」と同根のようです。m音とb音は発音の口の動かし方がほぼ同じですから。以前の記事にも書きましたが、昴、すぼめる、見すぼらしい、すばらしい、せばまる、統べるはいずれも一つの語源から派生しています。今回、それに「すべて」が加わりました。

かぐわしいの語源

かぐわしいは、今まで「騒ぐ・騒がしい」と同様、「嗅ぐ・かぐわしい」だと思っていました。しかし辞書を見ると、「香+くはし(細し)」の合成語とのことでした。ところで香は音読みで、くはしはヤマト言葉。何でしたっけ、あの湯桶読みじゃなかった、その反対のものの、合成のようです。(古典基礎語辞典。p321)

「次」「嗣ぐ」「継ぐ」「接ぐ」「続く」、ぜんぶ意味は同じ

「次」も「継ぎ」も根本の意味は同じです。継続しているから次。あ、継続の中にほら「継ぐ」という漢字がある。ということは「接ぐ」も「嗣ぐ」も、そして「続く」も結局同じなのでしょう。どれも「つぎ」であり、「順序をもって長く続くものに置いて、前のもののあとにすぐ続くこと」です。ただ漢字が違うと、語源が同じ事が見えなくなります。

「住む」「済む」「澄む」、もとの意味はぜんぶ同じ

日本語では漢字のおかげで本来同じ言葉が違って見えることがあります。たとえば「住む」「済む」「澄む」もその例です。すべて「すむ」という一つのことばですが漢字が違うので全く別の言葉に見えます。「すむ」のもともとの意味は、乱れて濁っていたものが落ち着いて透き通ってくるということで、その意味では「澄む」が基本語義にいちばん近いです。ここから、ひとつところに落ち着くということで「住む」。そして乱れていた物が落ち着くということで「済む」となりました。

ドイツ語は隅々まで単語で塗りつぶすような言語だなと

ドイツ語は隅々までキッチリと、あいまいなところを絶対に作らないよう、単語で埋め尽くすような言い方をする言語だなと、いまマンガ「バクマン」のドイツ語版を読んでいて思います。たとえば次のような文

日本語原文:(1巻 136ページ)
「うん そうね好きだった」
「じゃあ なんで好きって書かなかったんですか?」

ドイツ語訳:
(Ja,stimmt. Ich war in ihn verliebt )
Und warum haben Sie ihm das in den Briefen dann nicht geschrieben?

このドイツ語を直訳すると「ではどうしてあなたは彼にそれを一連の手紙の中でそのとき書いて伝えなかったのですか?」となります。長いです。単語多いです。あいまいな箇所を作らないよう単語で塗りつぶしていくような文章だと思いました。

英語訳はけっこうあっさりしています。
(Yes, I did love him)
Then why did't you write that in the letters

またドイツ語訳は文を最後まで読まないと全体の意味がつかめないような気がします。

Und (では)
warum(なぜ)
haben (したのですか)
Sie(あなたは)
ihm(彼に)
das(それを)
in den Briefen(それらの手紙の中で)
dann(そのとき)
nicht geschrieben ? (書いて伝えなかったということを?)

それともこれは私のドイツ語力が足りないからそう思えるだけで、ドイツ人にとっては最後まで読まなくても文意はつかめるのでしょうか?