ドイツ語の語順になじめません[1] ~ どうしてセット単語をわざわざ引き離すのでしょうか?

最近ドイツ語を勉強していますが未だに語順の感覚になじめません。

たとえば漫画「バクマン」1巻125頁の「おじさんはこの手紙をどんな気持ちで読んだんだろう...」というセリフのドイツ語訳。

Wie muss sich Onkel Nobuhiro wohl gefuhlt haben, als er diesen Brief gelesen hat...?
(ドイツ語直訳:ノブヒロおじさんはこの手紙を読んだとき、どんなふうに感じたはずなのだろうか? )

けっこう謎のなのがsich (英語ではoneself)がほぼ文頭に来ていることです。このドイツ語を無理矢理英語対応させると次のようになります。

Wie muss sich Onkel Nobuhiro wohl gefuhlt haben
<How><must><himself><uncle><Nobuhiro><wholly><felt> <has>?

辞書によれば、sich fuhlen <feel oneself> で「~の状態だと感じる」とのことで、これはセットのことばのようですが、なぜsichとgefuhlt <fuhlen>をこんなに引き離すのでしょうか。

で、どうしてgefulh haben muss (must have felt>ではmussとgefuhlt haben をほとんど文頭の文末ぐらいに引き離すのでしょうか。定動詞第二位の法則と言われれば何も言えませんが…

とにかくドイツ語というのは分離動詞や定動詞第二位の法則やらさらにはこのSICHやら、本来セットになっているものを無理くり引きはがすような語順が多いです。どうしてドイツ語ってこうなんでしょうか?

anyは英語独自の発想?

any(どれでも)というのは欧州語の中でも英語独自の単語のようです。漫画「バクマン」7巻で「自分で学費出すんだから好きな大学いける」というセリフがあり、ここは英語ではI'm going to pay for my tuition myself, so i can go to any college i want. と当然のようにany が使われます。このanyはたぶん英文ロジックでは必須だと思います。しかしその他の言語ではanyに相当する単語はありません。

スペイン語
podemos ir a la uni que queramos porque pagamos de nuestro bolsillo.

ポルトガル語
ja que eu vou pagar, posso escolher a faculdade que quiser.

イタリア語:
il ricavato mi aiutera a pagarmi gli studi da solo, voglio farlo per poterlo per poter scegliere l'universita in cui andare.

フランス語:
on pourra choisir la fac qu'on veut, puisqu'on payera nousmemes notre scolarite.

ドイツ語:
Immerhin konnen wir uns die Uni aussuchen, weil wir die Studiengebuhren selbst zahlen.

any の語源は古期英語an one + -ig ということです。英語の父親言語であるドイツ語に同種の単語が見当たらないということは(##)これはやはり英語独自の発想なのでしょうか。

(##: 本ブログではこの記号は「うろ覚え、要調査」を表します)

素晴らしいもみすぼらしいも口をすぼめるも昴も語源は同じ

動詞の未然形に~しいをつけると「~したくなるような・するほどの」という意味の形容詞になります。騒ぐ・騒がしい、好む・好ましいなどです。では「すばらしい」という形容詞も、もしや「すばる」という動詞から来たものなのでしょうか。結論からいうと、そのとおりでした。

統べる(すべる)は「バラバラのものを一つにまとめる」という動詞です。これには、窄べる(すべる)という書き方もあって、この場合は「一つにまとめる」が転じて、狭くする、ちぢめるという意味になりました。この「窄べる」は現代語でも「(口を)すぼめる」という形で残っています。また現代語の「狭まる(せばまる)」はおそらく「すぼめる」の自動詞「すぼまる」の訛りだと予測されます。

 

統べるの自動詞は統ばるで、「一つにまとまる」という意味です。これは転じて、「昴(すばる)」というプレアデス星団の星のまとまりを表す言葉になりました。同じく、窄べるにも自動詞があり、「窄ばる(すばる)」で「狭くなる、ちぢむ」という意味です。ここから形容詞、「すばらしい」が誕生しました。これはもとの意味は「狭くなるほどの」「ちぢみたくなるほどの」で、江戸時代には「ひどい」「とんでもない」という否定的な意味を表すことになりました。しかし日本語の形容詞や副詞では「すごい」のようにネガティブな意味が、ベクトルがひっくり返ってポジティブな意味を表すことがたびたびあります。すばらしいも、そこに当て字であてられた「素晴らしい」の見た目が幸いしたのか、転じて「とてもよい」という現代の意味になりました。

しかし元のネガティブな意味を残している単語もあります。「見窄らしい(みすぼらしい)」がそれです。

以上、素晴らしいもみすぼらしいもすぼめるも昴も語源は同じという話でした。

高いと八ヶ岳とそれだけと背丈はみな同じ

日本語は漢字のちがいのせいで本来おなじ言葉がそう見えないことがよくあります。

たとえば八ヶ岳の「岳(たけ)」。これは「高い」と同じ語源ですが、「岳」と「高」を並べても同じに見えません。でも「たけ」「たか」と書くと少し共通して見えますし、take、takaとローマ字書きするとtakという共通点がはっきり浮かび上がります。

その他、以下のことばも漢字は違いますが、ぜんぶ「高い(tak)」と同根です(##)

- 思いの丈(たけ)を伝える
- それだけ
- 計数に長けている(たけている)
- 背丈(せたけ)
-

というわけで、居丈高(いたけだか)というのはちょこっと二重表現です。

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ふんぎりがつかない

なかなか一歩が踏み出せない、という意味の「ふんぎりがつかない」を、わたしは長年、「糞切りがつかない」だと思っており「いやあ、下品な言葉だなあ」「女性が使う言葉じゃないなあ」と思っていましたが、正しくは「踏ん切りがつかない」でした……。反省です。

 

お疲れ様って、、、

「なんでこんな言い方するんだろうな、」とわたしがいちばん思う日本語は、「お疲れ様」です。文字通り、なんだか疲れる言葉だし、なんで「疲れ」を様づけしないといけないのか。まあ、それしか言い方ないからしょうがないけど。この言葉、いつからあるんでしょうね。江戸時代も言ってたの?