本当は怖い語源の話 ~ slave(奴隷) [その1]

ロシア、ポーランドチェコスロヴァキアクロアチアなどの人々を総称してスラブ人(slav)といいますが、これを最初知ったとき、何だか英語の奴隷(スレイブ、slave)と似た言葉だなと一瞬、思いました。いやいやいや、偶然の一致だから、スラブのみなさま失礼しましたと内心で訂正しましたが、その後、辞書で調べたら、なんとslaveの語源は本当にスラブ人でした。

英単語SLAVEという言葉の語源は、中世ラテン語SCLAVUS(スクラヴス)で、この単語はズバリ、スラブ人を指しています。中世初期に多くのスラヴ人ローマ帝国の奴隷にされたことから、この言葉ができあがったようです(※プログレッシブ英和辞典)。

これは英語の中でもっともPolitially Incorrect (政治的に不適切)な単語だと思います。もし日本語で奴隷を表す○○という言葉にどこかの地名、県名、あるいは他国の名称が使われていたら大きな非難を浴びるでしょう。だいぶ前に日本の特殊浴場に中近東の某国の名前が使われていたのを、同国の留学生が抗議して訂正されましたが、slave <= slav は、それの比ではない危険度です(※ ちなみにその特色浴場の命名根拠はおそらくこの絵だと思います。http://www.salvastyle.com/menu_neo_classicism/ingres_turc.html

「さあ行った行った」という命令形はなぜ過去形なのか

日本語で「さあ、行った行った」というのは、非常にぞんざいな、有無を言わさぬ命令形です。でも未来の行動を指示する命令形なのに、なぜ「行った」という過去形を使うのでしょうか。ところでロシア語にも同じような言い方があります。поити(パイチー、行く)の完了体過去形であるпошли(パシュリー)です。時制は過去形(完了体過去)ですし、使う場面は人を追い払うときの命令です。つまり、意味も語形も活用シーンも日本語と全く同じ。まさに「行った、行った」という意味、ニュアンスの言葉です。では日本語もロシア語もなぜ命令形を過去形で現すのでしょうか。先ほど日本語の「行った」を過去形と言いましたが、「行った」とは「行き・たり」が簡略化されたもの、そして「たり」とは完了を現す助動詞です。実は日本語で過去形といっている「~た」は、本当は完了形なのです。ではなぜ完了形が「強い命令」「ぞんざいな命令」を現すのか。完了というのは、いいかえれば「終わって、確定して、後戻りが効かない状態」ともいえます。つまり「行った行った」とは、「おまえが行くというのはもう確定したこと、決まったことだから」という意味合いになるわけです。ロシア語の完了体過去も同じロジックだと思います。

「恋(こい)」と「乞い」は同じかと思っていたら違っていた

私は今まで「恋(こい)」と「乞い」は同じ言葉で漢字が違うだけだと思っていました。相手を恋ふるのは、愛を乞うことだ、恋とは愛がほしい、くださいという意味だと思っていたのですが、大野晋先生によれば、恋と乞いは今は同じ音だけど昔は発音が違っていた、だからこの二つは別の言葉だとのことでした。こういうことは素人仮説ではとうてい分からず。言語学者の教えを請うばかりです。

恥じる → 恥ずかしい

動詞の未然形に~しいをつけると「~したくなるような・ほどの」という意味の形容詞になります。騒ぐ・騒がしい、好む・好ましいなど。となると「恥じる・恥ずかしい」となるはずですが、これは恥じ・ず → 恥じ・しい → (言いにくいので『か』を入れて) 恥じ・か・しい → (さらになまって) → 恥ずかしい、となるようです。


(##: 本ブログではこの記号は「うろ覚え、要調査」を表します)

「とりいそぎ」はなぜ「いそぎ」よりていねいになるのか?

「とる」の漢字には、取る、採る、捕る、執る、盗る、摂る、獲る、録る、撮るなどさまざまあります。これら漢字の使い分けを理解するのは面倒です。しかし本当に大事なことは、獲物が植物なら採る、動物なら獲るとか、そういう使い分けを覚えることではなく、すべての用法に共通する貫く論理です。「とる」という言葉は「手」から派生しています。つまり「とる」ときには必ず手を使ってていねいに行います。足で取るとはいいません。そう考えると「とりいそぎ」のように「とり」を頭につけるとていねいになる理由も分かります。手を使うからていねいさが一段アップするわけです。

「写真を撮る」は正しいけれど、「音を録る」は当て字?

「写真を撮る」は正しいけれど、「音を録る」は当て字だからダメと言われることがありますが、その正しい/正しくないには「そう決まっているから」という以外に特に根拠はありません。なぜかというと、撮の本来の意味は「ひとつまみすくう」ということで、撮土という言葉もあります。そもそも撮という字が生まれた古代中国の時代にまだ写真は発明されていないので、撮という字と写真の撮影が何の関係もないことは明かです。つまり「写真を撮る」も「音を録る」も同じレベルで当て字であり、どちらかを正しいとする理由はありません。